SEED DESTINYの本質

独断と偏見に満ちているので読みたくなければ飛ばしてください。
ふと種運命の考察を考えていて気付いたことを述べる。
まずこれは内容的には高校生ぐらいからのアニメだろう。*1
だが、自分にはこれは小中学校アニメに見える。
このアニメ、伝えたいことは前作と同じ戦争の悲惨さ、無残さ、残酷さであることはところどころ使われる映像で一目瞭然である。
それにアスランの回想の多さでも一人の人間に与える戦争の傷跡をえぐり続けている。*2
そうであるがゆえにエンターテイメントとしては他の部分をしっかりやらないといけないと思うのは自分だけであろうか。
主役を作るのは脇役という言葉がある。この言葉をそっくりそのまま本題と複線に換えれば自分のいいたいことは一目瞭然であろう。本題をよく見せたいのであれば複線をよく見せることでそれをより際立たせるということだ。
この種運命を見ていていまだに離れない言葉がある。
低俗な娯楽
このアニメの福田監督が新聞のインタビューで乗せていた言葉だ。
私はこの文章を見たとき怒った。
視聴者をなんだと思っている!と、正直これがアニメ監督としての発言なのかと思った。だが、自分は最近これがわかってきた気がするのだ。
低俗と言っているのだから、その反対の高尚も監督の中で定義しているはずである。
それが何かは厳密にはわからないが、監督の世代が漫画は馬鹿が見る物という世代だったことから想像に硬くない。
とすれば監督の中で自分の作る低俗の作品を見て高尚へ興味を持ってくれればいいと考えているのではないか、という気がしてくるのだ。そして、それには変に自分の考えを持つ高校生以上ではなく小・中学校生であることが望ましい。それが自分が小・中学生アニメと言った理由である。
さて、監督が自分の作品を低俗と捉えているのだから、その作品に余計な情報を入れないのが金銭面でも、伝えたいことでも一番いいことになる。つまりテレビにおけるCMと同じで、本当はスポンサーのためにずっとCMを放送していたいのを視聴者がみるわけがないのでしかたなく番組を作っているのと同じ心情である。
だから、監督にとって複線はあまり必要なことではなくなる。メカや内容の整合性よりも本題のみを見てほしいと思っている。それが出資者の意向なのか、監督の意向なのかはまったくわからないがどちらにしろここに種運命の非難の本質があると自分は思う。
これをエンターテイナーとしては失敗だと見ることはできる。だが、監督は落としどころを心得ているのである。キャラを女性が好きそうな絵と声優で押さえ。小学生ぐらいにはわかりやすい数倍などという設定。それで種は既存のファンを怒らせてもそれに見合うだけのモノを得ているのではないか?

*1:内容的にエグイ

*2:あえてどこかは言うまい…