D.C.S.S. みんなの時間

全員が制服を着ることによって2年前の時間を懐かしく思っているということをやっているのだろうな。プールの話もその延長上。これから変わっていく最後の日常をやっているのだろう。
皆を幸せにしたい。対立軸とすると純一音夢ペアVSその他女性というのがアイシアの中に成り立っている。ところが今回の肝試しの話はそれを否定している。人を愛することと、友情からの行動が実は違うものだとやっている。だが、アイシアにとってそれは自分の恋心を(さくらのように)ただ隠して奥深くに追いやっているとしか見えない。一言で言うと僻んでいる、ということなのだろう。だから、ついていけないとはっきり言っているし、*1その後自らの欲望を叶えてくれる(と信じている)桜の木へ行っているのだろう。
「どうして」とやたらと繰り返しているのは何度もここで書いているようにアイシアが集団における幸せ。この際、友情と言い換えよう。友情という概念がないからだと思われる。心から笑って欲しいなんて、この肝試しはそれをやっているのだから。しかし、アイシアは悪く言えば見事に変なキャラとしてキャラ立ちをしているな〜。
まあ、このアニメはあえてそういうキャラを作ることによって視聴者のアタリマエに疑問を提示したという意味において優秀な作品。そこに本来なら魔法という概念は必要ない。
しかし、そのイレギュラーというメタに行くことによって新しい解決策を求めていてその解決策がどのようなものであれ日常という初めに戻る=ダカーポという決着をつけるのだろう。これはこれで面白い。*2

*1:楽しいに決まっているじゃないの台詞は明らかに狙っていたし、これがアイシアの感情を逆なでするには十分な一言だ。

*2:まあ前作の魔法は半分オマケであんなキャラ同士の修羅場を見た人間にとっては、論理入門書みたいなのを見せられているようで面白くはないだろうが