長崎小6女児殺害事件

昨日の続きについて。
 マスコミは彼女を異常にしたがっている。だから異常者にしたがる理由を考えてみる。
 その答えは恐れである。なぜなら、異常とは日常と反対である、そして人間は他者に対して特別であることを望んでいるのだ。この特別とはアイデンティティにもなるが、同時に他人とは違う=異常であることを意味する。それでいながら道徳観念が異常ではいたくないと考えている。肝はここだ。
 テレビの報道を逆説的に考えてみよう。彼女が異常であると報道すればするほど、反対の意味を持つ。それは、自分たちが日常にいると思うことである。
つまり彼女が異常だ=私たちは異常ではない、という方程式が出来上がる。個人では異常になりたがるのだが、集団では日常でありたがる。その心理を報道することによって私たちに見せようとしているのだ。
 それはおそらく報道する側がもっとも恐れていることじゃないだろうか、報道する側は異常を日常という価値観から報道するのが仕事である。それがニュースであり娯楽であるから。だが日常とは異常ということに比べてはるかにわかりづらい。だから彼らは不安になる。自分たちの考えている日常は実は異常ではないのかと、本当は日常の価値観ではなく異常の価値観を報道しているのではないかと。
 だからその異常を確かめに行くのである。それによって犯罪被害者の人権を侵害し、アイドルを隠し撮りして、それを報道の自由だと居直るなどという行為は、本当はただ恐れているだけであって、異常を報道すればするほど自分たちが異常でないと言う幻想を持ちたいがためである。
 それは日常に対しての力への意志だといえる。